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ベイエリアの歴史(9) – 日本との遭遇

縦の鉄道と農業ブーム レランド・スタンフォードたちの鉄道は、「横」だけでなく「縦」にも敷設されました。東のシエラネバダ山脈と西の海岸に沿った低い山脈の間に、サン・ホアキン・バレーとよばれる漠々たる平原が縦に広がっていますが、その真中をつっきる形で南北にも線路が敷かれ、ここも現在でもアムトラック鉄道が営業しています。

これらの鉄道を使って、カリフォルニアの農産物を遠隔地に運ぶことができるようになって市場が広がったおかげで、1860年代以降、中央平原で農業が大発展します。この頃、氷を乗せた冷蔵輸送車両も登場しました。

最大の産品は、ランチョ時代からの伝統のある牛関係、つまり牛乳・乳製品やビーフでした。乾燥して日照の多い気候を利用して、ぶどうやオレンジなどのフルーツ、アーモンドやくるみなどのナッツ類、穀物も栽培されるようになりました。

カリフォルニアといえば、テクノロジーと映画かと思えばさにあらず、現在でもカリフォルニア州は農業の売上額で全米第一位です。現在の売上トップ5品目は、乳製品、ぶどう、アーモンド、植木苗、牛となっています。南北を貫く鉄道沿いには州道99号線という道路があり、穀物エレベーター、配送センター、大型農機具ディーラーなどが立ち並ぶ、農業のメインストリートとなっています。縦横の鉄道が交差するサクラメントの郊外には、農業技術研究のメッカとして知られるカリフォルニア大学デイヴィス校(UC Davis)があります。西側の山脈近くを99号線とほぼ並行して走る高速5号線をとおって、ベイエリアからロサンゼルスに向かうと、見渡す限りの果樹園が3時間ほど続き、途中には黒い牛の群れが視界の限り地を埋め尽くしている牛の集積場もあります。

会津武士が拓いた農場

そこで農業労働者が必要となりました。ゴールドラッシュと鉄道敷設のための人の流入が一段落した後、今度は農業移民がカリフォルニアへ向かう人の流れの中心となります。1900年頃からは、メキシコ革命の混乱で押し出されたメキシコからの移民が大量にやってきますが、その前の時期に日本から初めての移民が北カリフォルニアにやってきました。

それまでも、漂流して救助された漁民や、咸臨丸などでカリフォルニアにやってきた日本人はいましたが、移民としては1869年が最初です。彼らも、農業ブームの一角を形成した、農業移民でした。

戊辰の戦いで落城した会津若松から、一群の人達が会津藩の親戚筋であった新潟に逃れました。彼らはそこで、会津藩出入りの武器商人だったジョン・ヘンリー・シュネルと出会い、彼の主導でカリフォルニアにやってきます。武士、農民、大工などを含む40人ほどの移民団は、船でサンフランシスコから川沿いにサクラメントに至り、さらに北東の山にはいって、最初に金が発見されたあたりに近いゴールドヒルというところに落ち着きます。シュネルはそこで土地を購入し、一行は当時アメリカでも人気の日本産品であった、絹と茶を生産しようと試みます。この農場は、「若松コロニー」と名付けられました。

しかし、カリフォルニアの乾燥した気候では、桑も茶も育ちませんでした。誇り高き会津の名をアメリカで再興しようと頑張ったコロニーの人達も、生活の苦しさから、手に職を持って他でも仕事に就ける人から順に、櫛の歯が欠けるように徐々に離れていきました。「投資家」であったシュネルも金策のため日本に向かったまま行方不明となり、土地を購入した借金を返せなくなって、1871年にコロニーは倒産し、崩壊してしまいます。

一行のリーダー格であった旧会津藩の武士、桜井松之介は、最後に一人踏みとどまり、倒産したコロニーを買い取ってくれたビアカンプ家に恩を返すべく、執事として生涯仕えました。(シュネルは出自がはっきりしませんが、オランダ系と言われているようです。ビアカンプという名もオランダ系で、その周辺はオランダ系移民の多い地域だったのかもしれません。)いかにも会津武士らしい一生です。若松コロニーの跡地は現在は史跡として保護されており、会津藩(=徳川家)の葵紋がシンボルとなっています。

当時日本からアメリカへの移民は、ハワイが中心であり、カリフォルニアへの移民はその後しばらくは、ほそぼそと続いていきました。

<続く>

出典: カリフォルニア州認定小学校教科書”California” McGrowhill刊、Wikipedia、 California Department of Food and AgricultureWakamatsu Tea and Silk Colony Farm若松コロニーとシュネル